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徒然日記「多事某論」 楽天支部

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南京にいた人、あった死体。

当時南京にいた人間は以下のように分類できる。

支那兵
CS-1 軍服を着用している南京防衛軍兵士(CS=China Soldier・支那兵)
 南京防衛軍
 司令官  唐生智
 副長官  羅卓英、劉興
  第103師 何知重
  第112師 霍守義 
  第 66軍 葉肇(159師,160師)
  第 71軍 王敬玖(87師)
  第 72軍 孫元良(88師)
  第 74軍 兪済時(51師,58師)
  第 78軍 宋希謙(36師)
  第 83軍 とう竜光(154師,156師)
  第2軍団 徐源泉(41師、48師)
  教導総隊 桂永清
  憲兵部隊(両団)齏山令
  江寧要塞司令 陌百昌
  その他 砲兵、通信部隊等

当時日本軍は中国の首都防衛軍を10万と見ていた。
それは前記の戦闘序列に名を連ねた兵団番号によるが、南京陥落時の城内の兵力はその半数以下、3.5万から5万人とみるのが妥当のようである。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、次のように述べている。

「南京包囲の日本軍に対抗したのは、広東軍数個師団、江西軍2、3個師団、若干の湖南軍、さらに城内では第36師、第88師およびいわゆる南京師団であった。
広東軍部隊は、上海付近から日本軍の前面を退却する間、何週間も日本軍の砲撃にさらされていた。
かつて蒋介石総統の精鋭軍であった第36師と第88師は、上海付近で大損害を蒙っていた。
これらの師団は南京に退却して新兵を補充した。蘇州と句容の間で日本軍の進攻に第一線に立って抵抗してきた四川軍の大部分は蕪湖からは揚子江を渡河してしまい、南京の戦闘には加わらなかった。
南京市内外の中国軍の戦力がどれほどであったか正確にあげるのは難しい。
ある観察者たちの推定では、南京攻防戦には16個師団が参加したという。この数字は正確と見なされる。
中国軍の師団は平時においてさえも、平均してわずか5000名編成にしかすぎない。
南京を防衛して痛撃を蒙った大師団は、少なくとも場合によってはそれぞれ2000~3000名編成であったこともあり得る。
約5万人の軍が南京防衛戦に参加し、袋のネズミとなったといっても間違いない。」

 (『日中戦争史資料』第9巻・南京事件II 洞富雄編 河出書房新社 286~287ページ)

そのほか、在南京米大使館アリソン三等書記官から在漢口ジョンソン大使あてに送付した南京米副領事ジェームス・エスピーの報告書には

「町(南京)は5万を越えざる兵数にて守らるることとなり居れり。実際僅かに唯の5万に過ぎざるなり」
 (極東国際軍事裁判速記録58号21・8・29)

とある。
また、東京裁判の判決文の中にも

「中国軍はこの市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した」
「残留軍5万の大部分は・・・・」


とあり、中国の南京守備兵力5万と判定して議論を進めている。
また「南京安全区国際委員会」の日本大使館への公文書の中にも

「南京衛戌軍五万」

と記載されており、昭和12年12月13日の南京陥落時における唐生智麾下(きか)の兵力はおおむね5万とみられていた。
しかし、歩兵第19旅団司令部の通信班長犬飼總一郎氏は、紫金山で戦闘した体験と、戦後の中国側の資料その他から推理して

「陥落当時の城内の兵力はせいぜい3万ていど」

という見方をしている。
これを裏付けるように、最近秦郁彦が台湾で取材したところによると、中華民国の関係者は、城内兵力3.5万と計算している。
要するに3.5万から多く見積もっても5万である。


CS-2 便衣に着替えた南京防衛軍兵士
 人数不明


CS-3 南京に後送されてきた傷病兵
 後送傷病兵の総数は不明
 傷病兵のうちの死者は約9000人程度(資料より推定)

上海戦での戦闘は、日中双方とも死闘に次ぐ死闘で、多くの戦死傷者を出したが、中国の場合その負傷者は、主として南京および蕪湖方面に後送された。
その南京に後送された傷病者の数はいったいどの位になるかについて、畝本正巳氏は「証言による「南京戦史」」の中で次のようにくわしく述べている。

「11月25日の中支那方面軍特務部長の中央に対する報告によると、「上海の支那軍83個師団のうち、その半数は損耗しており、その実戦力は約40万内外」といわれる。上海の激戦地に逐次増援して83個師団の大兵力となった中国軍は、約4ヶ月間に累計10万人の死傷者を出したことになる。これらの死者は現地において処置され、負傷者は逐次後送されたのであろうが、後送された負傷兵の数はどのくらいになるであろうか。「当時における日本軍の戦死者と負傷者の比率からみて、少なくとも15万以上の負傷者が南京に後送された計算になり、3ヶ月に及んでいるので、1ヶ月5万人、1日平均1700人が連日南京に後送されたことになる」
 
これらの負傷者は、一時南京にとどまり、逐次重傷者は船で漢口へ、あるいは陸路江北に移送されたものと思われる。
しかし南京の病院で陣没して城内の墓地に埋葬されたものも相当数あるはずと推測している。
なお、第16師団参謀長中沢三夫大佐は次のように述べている。

「南京は11月下旬より、遠く南方戦線の戦死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室に充てられ、全市医薬の香が、びまんしたる状態なり。これに生ぜし死者もまたすくなからず」

全市に医薬の香りがびまんしたという表現は、前述の「東京日々新聞(現毎日新聞)」がスクープした某外人の日記の中にも

「25日(11月)戦死傷者の南京後送で、移転後の政府機関はもちろん、私人の邸宅まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香りがびまんし、軍人の町と一変した・・・・」

とあり、すでに11月25日ころから南京全市が兵站病院の観を呈した様子がうかがえる。
中沢参謀はさらにこう言っている。

「入城時、外交部の建物は、大兵站(へいたん)病院開設せられあり、難民とともに外人の指導下にありて、数千を算する多数の患者を擁(よう)し、重傷者多し。日々、3、40名落命しつつありたり。これらの処理を、運搬具乏しき当時如何にせしや疑問にして、付近に埋葬せられたること確実なり」

当然東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬死体の中には、当然これらの死体が相当数あったはずである。
もし1日平均3、40名死亡したとすれば、その他、鉄道部、軍政部門の傷兵医院、中央医院などの兵站病院を合計すれば、平均1日100名内外の死亡者を生じたものと考えられる。
上海の激戦は8月下旬以来約3ヶ月間続いたから、上記の計算を準用すると、約9000人程度が南京において陣没したものと推測される。


支那民間人
CC-1 南京市民(CC=China Civilian・支那民間人) 
 各種史料から20~25万人前後であると推測される。

南京安全区国際委員会は日本大使館への61通の文章の中に3回にわたって

「安全区内の難民の総人口は20万人である。」

と記述している。
以下当時の南京市民に関する記述を拾ってみる。

・米副領事のエスピーの本国への報告、ラーベのドイツ大使館への報告
「南京の人口は20万人」

・ドイツ・フランクフルター紙の特派員で陥落直前南京を脱出したリリー・アベック女史は自分の脱出時には
「漸く、15万人を数ふる小都市に成り下がっていった」(文芸春秋・昭和13年・2「南京脱出記」)

・米ライフ紙(当時ライフ氏は非常に反日的であった)
「日本軍は15万人の南京市民が避難した安全区をちょっぴり可愛がった」

・日本軍の捕虜となった張群思少佐
「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」

・汪兆銘政府の軍官学校長に就任した劉啓雄少将(当時雨花台陣地を守備した旅長)は
「概ね20万」

・松井大将『陣中日誌』12月20日
「避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ細民層ニ属スルモノナルモ、其数十二万余ニ達シ」

と言う記述がある。
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12~13万から最高20万の間であろう。
唐生智麾下の南京防衛軍は3.5万から5万であり、目一杯多く見積もって合計25万、少なく見積もって16~17万である。


CC-2 南京市民以外で付近から避難してきた者
 CC-1に算入


日本人
JS-1 日本兵(JS=Japanese Soldier)
 上海派遣軍(軍司令官 朝香宮中将)
  第 3師団(名古屋)の一部
  第 9師団(金沢)
  第 11師団 天谷支隊(善通寺)
  第 13師団(高田)
   山田支隊
  第 16師団(京都)
  第101師団(東京)の一部
 第10軍(軍司令官 柳川中将)
  第 5師団の一部(国崎支隊)
  第 6師団(熊本)
  第 18師団の一部
  第114師団(宇都宮)
 総兵力は約10万と号していたが、上海戦での消耗はげしく、実兵力は7~8万程度(推測)


JR-1 日本人報道員(JP=Japanese reporter)
 当時「朝日」「東日」「読売」「日経」など全国紙の各支局をはじめ、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣している。
 新聞記者やカメラマン、無線技師、特派員、従軍記者など総勢で約120人程度であろう。
 確認できた新聞社は
 朝日新聞
 東京日々新聞
 読売新聞
 同盟通信
 報知新聞
 都新聞
 少なくとも100名前後の報道陣が南京に滞在していたようだ。(各種史料より推定)

 また
 大宅壮一
 木村毅
 杉山平助
 野依秀市
 西條八十
 草野心平
 林芙美子
 石川達三
 といった高名な評論家や詩人、作家も陥落とほとんど同時に入城している。
 このほかにも、南京陥落後、13年の春から夏にかけて、南京を訪れた有名人は大勢いる。
 これらの人々は、帰国するや色々な雑誌や新聞にレポートを書き、講演もしている。
 例えば、
 杉山平助氏は朝日新聞に「南京」
 木村毅氏は「江南の早春」
 林芙美子氏は「南京行」
 小林秀雄氏は「杭州より南京」
 詩人草野心平氏は「支那点々」
 野依秀市は「実業の世界」に「楽土激土」
 この草野氏と野依氏は2人とも南京市の城壁の内外を車と足で歩いている。
 その視察記はまことにきめ細やかな描写で、臨場感にあふれている。
 しかしそれらの視察記や紀行文の中には"大虐殺"を匂わすような文章はどこにも見当たらない。
 終戦後も、これらの作家や評論家や詩人のだれ一人として南京事件を告発したり、あげつらう者はいなかった。
 批判力旺盛な口八丁、手八丁と言われた大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった。



外国人
 全体で20名前後(史料より推定)

NSIC 南京安全区国際委員会メンバー(NSIC=Nanjing Safetyzone International Committee)
 委員長 ドイツのシーメンス会社支店長ジョン・H・D・ラーベ
 書記長 米人の金陵大学社会学教授ルイズ・S・C・スミス博士
 構成員 米人7名、英人4名、ドイツ人3名、デンマーク人1名の計15名(資料により確定)


FR 外国人報道員(FR=Foreigner Reporter)
 5名前後(推測)
 戦渦が南京におよんだ12月12日、多くの記者はパネー号に乗って南京を脱出した。
 南京に残った記者は次の5人である。
 N・Yタイムズのダーディン
 AP通信のマクダニエル
 シカゴ・デイリーニュースのアーチボールドスチール
 ロイター通信とブリティッシュニュース・エージェンシーのスミス
 パラマウント・ニュース映画のアーサー・メンケン。
 ロンドン・タイムズのマクドナルド記者はパネー号が沈没したため一旦収容され17日上海に戻るが、その途中15日南京にまた舞い戻って取材している。


FE 外国人公館員(FE=Foreigner the Embassy staff)
 恐らく若干名(推測)

なお唐生智は11月28日、外人記者会見で、中国軍は訓練も足りず、規律も良くないので、不祥事が起こるかもしれない、無用の外人は退去されたいと警告している。
要は部下が何をしでかすかわからん、責任は持てないから外国人は退去せよというのである。
このため、前述の「安全区国際委員会」の委員15名、新聞記者5名、若干の公館員等20数名を残す他は、12月7日の蒋介石脱出と前後して南京を退去している。



当時南京には以下の死体があったと推測される。

戦死者
1,南京防衛戦で戦死した者。
2,退去、逃亡の際、督戦隊等の射撃をうけて死亡した者。
3,南京に後送されてきた傷病兵で南京で病死した者。
4,敗残兵狩りで射殺された者。
5,便衣兵狩り摘出され処刑された便衣兵。

準戦死者
1,個別に投降したが殺されたもの。
2,戦場に残留して中国軍に協力した為、あるいは巻き添えを食って死亡した一般市民。
3,便衣兵狩りの際、便衣兵と誤認され死亡した一般市民。

不法殺害
1,集団投降捕虜、個別投降捕虜で収容後殺された者。
2,無抵抗の善良な一般市民(含む婦女子)で殺された者。

注 集団投降捕虜とは当時の国際法の庇護下にあるPW(Prisoner of War・戦争俘虜)を指し、個別投降捕虜とは当時の国際法の庇護下にないPWを指す。

紅卍字会による埋葬死体4万3071の全てが虐殺されたとは言えないだろう。
戦死者3の南京に多数後送された傷病兵の死者は、虐殺は言えない。
また、南京では支那有史以来数々の虐殺が行われており発掘作業で出てくる全ての骨が虐殺であるとは言えない。


戦場において人間は以下の三種類に分けられる。

1,合法戦闘員
2,不法戦闘員
3,非戦闘員

1と3については何も言うことはないでしょう。
念の為に書いておくと1とは「ハーグ陸戦法規」第一条を具備している軍及び遵守している民兵及義勇兵団。
もしくは「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」第四条を満たしているものが当てはまる。
(1929年のジュネーヴ条約に関しては信頼できる適当な邦訳文献がないので省略)
つまり、
(a) 部下について責任を負う一人の者が指揮していること。
(b) 遠方から認識することができる固着の特殊標章を有すること。
(c) 公然と武器を携行していること。
(d) 戦争の法規及び慣例に従って行動していること。

これを満たしていれば「国際法の庇護下にある捕虜(PW)」になる事ができる。
3については言わずもがな。民間人であり、市民である。

一番問題になるのが2の存在である。
要はゲリラでありレジスタンスであり、便衣兵である。

米国防長官ラムズフェルド氏は「ジュネーブ条約の最も重要な見解の一つ」について、それは「合法戦闘員と不法戦闘員との区別である」として次のように述べている。

「この合法戦闘員と不法戦闘員との間の区別を私たちがぼかすならば、それは私たちの軍隊と他国の軍隊の観点からして恐ろしく危険な事である。不法戦闘員とは、非戦闘員のように見せかけて、非戦闘員を危険ならしめる人である。そして合法戦闘員とは私が述べたように、軍服を着て、武器を見せて、組織的作戦についている人である。彼らが高水準の保護を提供される理由は、彼らが合法戦闘員だからだ。」
(南京「虐殺」研究の最前線 展転社 東中野修道 P-188)

何故戦闘員と非戦闘員の区別が重要かは言わずもがな。
不法戦闘員はある時は戦闘員であり、形勢が悪くなると非戦闘員の中に紛れ込み次の機会を狙う。
合法戦闘員からしてみれば不法戦闘員と非戦闘員との境界線は限りなく近いのであり、時にイコールとなる事もある。
また不法戦闘員は非戦闘員の中に紛れ込む事で数的不利を補う事もあり、確信犯としか言いようがない。
結論にラムズフェルド氏の言を借りれば
「不法戦闘員とは、非戦闘員のように見せかけて、非戦闘員を危険ならしめる人である。」


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